古墳四方山話
1.おのPの古墳コラム「ゴーマンかましてよかですか?」 
2.ヤマポンの古墳雑感「古墳探訪の計画と実践」
3.M谷エッセイ「ゴマヒゲアザラシのつぶやき」

M谷エッセイ「ゴマヒゲアザラシのつぶやき」目次
@気が付いたらそこにあったフライ(その1) 03.8/10
A気が付いたらそこにあったフライ(その2) 03.8/12
B古墳との遭遇 − 南小の遠足にて玉国先生激怒 03.8/13
Cビートルズと古墳の意外な関係?−その1 03.9/5
Dビートルズと古墳の意外な関係?−その2(ストロベリ−古墳) 03.9/5
Eビートルズと古墳の意外な関係?−その3(アビ−ロードは心霊スポット?) 03.9/6
Fストーンヘンジ訪問記 03.9/12
Gポテト入りやきそばへのオマージュ 04.5/21


@気が付いたらそこにあったフライ(その1) 03.8/10


このHPを見ている人達ってどんな人なんだろう、山好き?スキー好き?温泉好き?ネコ好き?はたまた古墳好き??とにかくネットサーフしてたら、たまたま辿り着いた人もいるだろうな。

僕ことゴマヒゲアザラシのM谷は現在35歳、このHPの主宰者であるヤマポン氏、おのPとは某水産会社の同期入社ということで、いつの間にか変わり者同士仲良くなった。ヤマポン氏は入社して3年か4年でさっさと会社をドロップアウトしてしまったが、僕とおのPは資本主義のブタとなって、いまだセコセコと小銭を貯めている。何の目的もなしに。

HP上で僕は古墳何とか会の準会員で現在ロンドン在住と紹介されているが、不眠症をこじらせてこの4月にロンドンから熊谷に舞い戻った。この顛末はみなさんが聞きたくなかろうが、後日ゆっくり語らせて頂く。

さて、僕は生まれも育ちも埼玉県熊谷市、そうあの夏すごく暑く、冬すごく寒い悪名高き土地。何でこんなとこに生まれたんだなんて両親を恨んだことはないが、一旦そこを離れてみると住みずらい都市であると実感する。(僕は自分の生まれた土地をけっして誹謗中傷するつもりはない。ただ事実は事実なのだ。)

フライに舌鼓を打つゴマヒゲアザラシ(左)しかし僕が熊谷に生まれ育ってよかったなと思える唯一の瞬間がある。それはフライという食べ物を口に頬張っている時だ。フライ・・・このHPでも小さく紹介されている。

フライはお好み焼きの貧弱版もしくは出来損ないとか評する人もいる。しかしフライは熊谷、行田にしか分布存在しない我々のソールフードなのだ。アメリカでいうホットドック、イギリスでのフィシュ・アンド・チィップス、タイでのパクチ、韓国でのキムチ、長野でのいなご、名古屋のウイロウ? 僕が35年前この世に生をうけて、物心ついたころろからフライはそこにあった。まるで空気の様に。そしてフライ屋というフライや焼きそばだけを専門にサーブするレストラン?が街のそこかしこに存在したのだ。僕は高校に自転車通学していたのだが、学校の帰り道で必ずフライとコーラを食したものだ。

さきたま古墳群付近のフライだいたい
フライ屋はどの学校の通学路にも必ず2〜3軒は存在し、飢えた学生の胃袋を満たしていた。
フライはスタンダードタイプ(小麦粉を鰹節のだしで溶いた生地に豚肉・長ねぎ・桜海老を混ぜ、薄く焼いてある)で当時約100円。2枚食おうと3枚食おうと値段は知れていて、またこれがうまいんだ。それと、フライ屋に付きものなのはシェフの太ったおばちゃんと、茶色に変色し何段にも無造作に積み上がった少年ジャンプ、そして小さい茶羽ゴキブリ。何時間マンガを読んで粘ってもまず文句は言われないし、たまに洗い物とか手伝うとおばちゃん喜んでこずかいくれたりする。何だか訳わからない。これで経営成り立つの?なんて子供心に心配したものだった。


A気が付いたらそこにあったフライ(その2) 03.8/12


高校を卒業した後の1年間、宅浪生活は図書館と自宅の往復だった。そんな暗い生活の中でお昼に行くフライ屋はたいそう気分転換になったものだ。
毎日フライの大とコーラを注文し、マンガは読み放題。たまに予備校に通っていた高校時代の友人がふらっとやってきて「代ゼミは月謝高い」「土屋の古文はまだ席に空きがあるらしい」などと情報交換をしたりと社交の場となっていた。

翌年の受験で第一志望のK応大は全滅したが、何とかM治大とA山学院にひっかかり、一人暮らしをしたかった僕はA山学院を選んだ(当時我が母校は一般教養課程が厚木にあったのだ)。

初めて埼玉県北部を離れ神奈川県の横浜(綱島)に下宿先を見つけ一人暮らしを始めた僕は、真っ先にフライ屋がないか街を散策した。しかしどう探しても一軒も見つけられず、大家さんに聞いてみたところ「何のフライが食べたいの?」なんて聞かれる始末。その時はじめてフライは僕の地元にしか存在しない特殊な食べ物であることを知った。フライって日本のどこにでもあるんじゃないの?まさしく食文化における井の中の蛙であったのだ。


その後の大学4年間、社会人になってからの11年間そしてロンドンでの8ヶ月間の計約16年間、古墳探索の合間に食べる機会はあったが、僕の足はフライから遠のいていた。

悲しいことに故郷の熊谷を離れ暮らしている中で、僕は世の中にはフライよりも美味いものが結構ある事を知った。またM谷家の食生活って何か変だっていう事も知った。僕の弟は現在結婚し独立している。子供の頃から同じものを食してきた奴いわく、「兄貴、俺 茶碗蒸しにウインナ−入ってないなんて初めて知ったよ。うちのにはいつも入ってたよね?」 僕はそれに対し「それじゃ、おかずにならないじゃん」と返答したものである。茶碗蒸しは我が家ではお吸い物の一種というよりもメインデッシュであったのだ。

話はすごくズレてしまったが、すったもんだあり久しぶりに熊谷に戻って「よしフライ食うぞ」と意気込んだものの、何とあれだけ軒を連ねていたフライ屋の件数が超激減していたのだ。
しかも以前の様にフライ純血店といったものはなく、小綺麗な店内では、モツ煮込み定食やナポリタンなんかも出す食堂に様変わりしていた。
フライ屋につきものであった少年ジャンプは週刊モーニングに替わり棚に綺麗に整理整頓あった。茶羽ゴキブリの姿形もない。シェフのおばちゃん達はここ数年で次々と大往生してしまっていた。
おばちゃん達の後をいやいや継いだ若奥様達は 「食ったら、とっとと帰えんな」熱視線を客に投げかけるので安息できる雰囲気もなく、安らぎの場というより吉野家の牛丼屋の様にただ胃袋を満たすだけのファーストフード店化してしまったのだ。

何か寂しい・・・なんて言ってもただのノスタルジーなんだろうな。だって熊谷に住む若者達は今やフライなんてあまり知らないし、今や美味い物が安価で街に溢れているのだから。
フライもかつての鯨の肉と同じ運命を辿ってるな、確実に。また1つスローなソールフードが消えていくのか?そうはさせるか!僕は一人でも消費するぞ!フライの店 「いこい」(店のおばちゃん70歳ぐらい?)がある限り。


B古墳との遭遇 − 南小の遠足にて玉国先生激怒 03.8/13


そうそうこれは古墳のHPだったよね。すっかり失念しておりました。そろそろ古墳の事に触れないと管理人のヤマポン氏に怒られそうだ。

僕の古墳との遭遇は、確か小学校5年生の時の遠足もしくは社会科見学のどちらかで行った、熊谷市の隣町の行田市にある「さきたま古墳群」だった。
なんせ彩の国埼玉は観光資源に乏しいもんで、埼玉県民が義務教育期間に通過儀礼として必ず連れていかれるのは、長瀞、吉見の百穴、越生梅林、そして今回登場するさきたま古墳群、とだいたい相場が決まっている。

金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳さきたま古墳群は埼玉県民の誇り、大遺産として県民から崇められ、たぶんすごい金額の地方交付税が整備費として投下され、まるで一大テーマパークの様相を呈しているのである。
確かに猛々しく聳える古墳群は一見の価値ありなのだが、そもそも古墳は墓なのにかかわらずテッペンまで遊歩道が伸びていて、ここはただの低い山?なんて感じさえある。今ひとつ歴史の重みとか感じられない作りが、埼玉らしいと言っちゃ埼玉らしい。

さて我が熊谷市立南小学校5年生ご一行が、さきたま古墳群に遠足に行くことが決定した日、ほとんどの児童からブーイングの嵐が出たのは言うまでもない。なんせ、さきたま古墳群なんて熊谷から近いから結構みんな自転車とかでちょっと遠出して、すでに遊びに行ってる奴が大半なんだよね。

当時、うちのクラス1組にはレクリエーション係(男子3人、女子2人で構成)が設定されていて、遠足や社会科見学等のバス移動がある時、バスの中で使う歌のしおりの作成やゲロ袋とバケツの用意をするといった役割があり、僕もその係りの一人だった。その係り5人の中で役割のローテーションが組まれており、その回は僕と原君で歌のしおりの作成をすることになった。

歌のしおり作成は、結構わくわくする作業であった。なんせ当時のヒット曲を(その時はゴダイゴ、ツイスト、サザン、とバンドが流行っていた)独断と偏見で選曲し、一冊の本を作り上げるのだからなかなか楽しいのだ。まあ、本と言っても明星の付録の歌集から曲を選んで歌詞を写し、藁半紙に印刷するだけなのだが。
しかし、当時歌のしおりを作成するにあたり、ひとつの暗黙のルールがあった。それは必ずしおりの最初の2曲は、「埼玉県の歌」と「熊谷直実節」を入れなくてはならなかったのだ。

「埼玉県の歌」の歌詞はうろ覚えであるが、確かリフレインの部分が♪明日に向かって歩こうよ。あーあー埼玉、埼玉、埼玉、輝く埼玉あー♪ で、「熊谷直実節」は、♪秩父の峰の雪白く、なお荒川の風寒しぃー、ここ武蔵野の大里は信州一の旗頭、直実公の故郷ぞー♪である。

誰もそんな曲歌いたくないし、いかにも郷土愛を鼓舞させようとする意図が見え見えであった。原君と僕は、「今回この2曲外そうぜ、どーせさ、誰も歌わないし紙の無駄」って結論になった。

古墳行きの当日、担任の安部先生(女性の優しい先生)が風邪かなんかで参加できなくなり、急遽、用務の玉国先生(昭和一桁生まれの頑固者で顔がぺヤングソースやきそばのカップみたいに四角く、ごつい顔で嫌われ者)が1組の引率としてバスに乗り込んできた。

バスが走り出し、しばらくしてバスガイドのおねえさんが「今日は晴れて古墳日和ですね」なんて始めた頃、僕と原君は刷りたてホヤホヤの歌のしおりをみんなに配った。
そして恒例の大合唱大会をやろうと原君が音頭をとったその時、玉国先生が突然マイクを取り、「それではまず我々の心の歌、直実節をみんなで歌おう」と、声高々に宣言した。

「では、歌集を開いて」と言いながら玉国先生が僕らの作ったしおりを開いた瞬間、カッと目を見開き、運慶快慶の彫った仁王像の様な顔をして、「何だ、この歌集は直実節が載ってないぞ、しかも埼玉県の歌も! こんな歌集は駄目だ、歌は中止!」と叫び、マイクのスイッチを切ってしまった。
シーーーーーーン・・・バスの中はそれまでの盛り上がりはどこへ、水を打った様に静まりかえった。僕と原君の顔はひきつり、クラスの冷たい視線が僕たちに注がれたのは言うまでもない。

今だから言えるこの一言 「玉国、大人げないぞ!」。

そうなのだ、僕はさきたま古墳群と耳にするとこの時の事を思い出し、暗い気持ちになってしまうのだ。

その後の古墳の見学自体にたいした印象はないが、クラスの一人、三浦君が古墳の頂上で犬の糞を発見し、「あ、古墳んこだ!」と叫び、クラスの全員が「ぐふぐふ」と笑った。はなわの歌の通り、埼玉県民はどこかおバカなのだ。


Cビートルズと古墳の意外な関係?−その1 03.9/5

ロンドン/アビーロード・スタジオ僕は1967年生まれ、ちょうどビートルズが日本に来日した年に生まれた。

自分がもし、もう10年いや20年早く生まれていたら、死者狂いで武道館のチケットを入手したこであろう。それだけビートルズが好きなのだ(マニアとまでは行かないが)。

無論、現在40代〜60代の方々のように生(ライブ)でビートルズと接することのできた世代ではないが、彼らの音楽を耳にしたのは中学時代であった(ちなみに荒川中学という荒川の河川敷にあることから名の付いた中学校に通っていた)。確か角川映画で金田一耕助シーリーズの「悪霊島」という映画がやっていて、それを見に行った時にビートルズの「LET IT BE」がテーマ曲に使われていた。何でもその映画の設定が60年代とのことで当時の角川書店の社長、角川春樹が東芝EMIから曲を使用する権利を買取りテーマ曲に採用したらしい。英断である!もし春樹氏がいなかったらビートルズの音楽を好きにならなかったかもしれないし、彼らのレコードを買込むこともなかったろう。経済用語で言う機会の喪失である。今でも何だかんだ悪口言われているが、当時の角川春樹は文化を創造し、金を市場に巡回させる天才だったと僕は思っている。僕の少額のこずかいかいから一体いくら薬師丸ひろこの映画、ブロマイド、ポスター代に消えていったことか。

話がそれたが、僕は映画そのものより「LET IT BE」のジョージのギター間奏、ポールの巻き舌な英語に感動してしまい、早速EP盤を買いに行った。そのEPは今風に言うと「GET BACK」がカップリングされており、「LET IT BE」とは違ったアップテンポなロックに、今まで聞いていた日本の歌謡曲は一体何だったのだ!という具合にいわゆる西洋カブレが始まったのである。中学2年の時、杉田君という同級生がいて、彼は2人年の離れた兄貴がいた。だから彼は中学生の割には結構おませで、ビートルズは当たり前、ストーンズ、レインボー、ピンクフロイド等を幅広く聞き、その幅はロックに留まらずレゲイにまで及んでいた。ボブマリー何て今でこそ皆さん知っているが、当時その名を知っていた中坊は熊谷では彼ぐらいであったろう。そんな彼は周りに歌謡曲しか聞かない同級生たちに囲まれて音楽の話が合わずうんざりしていたらしい、僕がEP盤を買ったことをポロッと言うと「何だみたこう、お前ビートルズ聞くのか?じゃサムシングとか好きか?やっぱジョンの魂は傑作だよ」なんて堰を切った様にしゃべりだした。(注)みたこうとは当時の僕のあだ名である。僕は意味不明の用語を連発する杉田君にまだ2曲しか知らないと話したら、彼は翌日、な何とSONYメタルテープにビートルズベスト入門編を作成してきてくれたのだ。この恩義は忘れてないよ杉田君。その後、僕がビートルズにはまったのは言うまでもなく、赤盤(ビートルズ初期のベストアルバム)青盤(ビートルズ中期から後期のベストアルバム)は勿論、オリジナルアルバムではあき足らず、海賊版にまで手がいった。当時の僕のエンゲル係数ならぬ、ビートルズ係数は有に80%を超えていた。

一旦、あるアーテイストが好きになるとその人たちの生まれ故郷ってどんなとこ?なんて興味出てくるよね? 僕もビートルズの生まれ故郷イギリスのリバプールってどんなとこだろうと思いを馳せた。そしてよく教科書の世界地図で位置を確認しながら「ひえー遠いなー」何て思っていた。そして約10年後某水産会社に就職した僕はついにイギリスに長期出張に行出る機会に恵まれた。そして休日を利用して迷わずリバプールへ。そしてそこで発見した古墳?とジョンレノンとの意外な繋がり。次回マジカルミステリーツアーへ。

Dビートルズと古墳の意外な関係?−その2(ストロベリ−古墳) 03.9/5

リバプールはロンドンから特急電車で約5時間、イングランドの北西部に位置する港街で、第二次世界大戦までは工業で栄えた都市である。イギリスの鉄道は目的地別(地方都市別)に出発駅が分かれていて、リバプールやマンチェスター等の北部に行くにはユーストンというターミナル駅から電車が出ている。チケット代は往復で50ポンド、1万円弱と思っていただければよいだろう。チケットを買った僕はエスプレッソとドーナッツを買い電車に乗り込んだ。ゆっくり走りだした電車(以前日本でよく走っていたL特急に似ている)はしばらくロンドン郊外をゆっくり走り、30分程経つと車窓の外はすっかり牧歌的な風景に変わった。草原には羊たちが戯れ、時にはヒマワリや菜の花が一面に咲き乱れ、まるで黄色の絨毯が敷かれている様であった。しばらく、それらの風景に感動して見ていたものの、朝早く起きた為か急速に睡魔が襲ってきていつの間にか寝入ってしまった。

はっと目を覚ますとそこはすでに終点のリバプール、あっと言う間に着いてしまった感じであった。リバプールの駅はレンガ造りのご立派な駅舎で、世界じゅうからビートルズマニアが訪れるらしく、構内の表示はご丁寧にも日本語、中国語、ドイツ語、フランス語で書かれていた。早速インフォメーションセンターに行き色々調べてみると、リバプールは意外と広い都市であり、いわゆるビートルズのゆかりの場所は東西南北に点在してしまっているのである。自分の足で各所を回ろうと心に決めていた僕の心は萎えていき、えい!ガイドのついたツアーに参加しようと決めた。そのツアーはまさしくマジカルミステリーツアーと名付けられており、バスはあの映画そのままに黄色のペンキで塗られており、ガイドはジョンレノンがチンチクリンになった様な感じの陽気なおにいちゃんであった。ツアーは約4時間コースで、ストロベリーフィールズ、ペニーレーン、ジョン、ポール各人の生家、彼らが初めてライブを行った教会、そしてキャバーンクラブ等をビートルズの名曲と、ガイドの解説を聞きながら廻るのである。参加者は約20名、ドイツ人やアメリカ人が大半で日本人は僕と年にして50歳ぐらいのおばさんであった。普通なら異国の地で会った日本人であるから声をかけたいところであるが、そのおばさんのいでたちは、髪を黄色に染め、色褪せたジージャンに無数のワッペン、ジョンを意識してか丸メガネをかけ、なぜか太ったお腹のヘソの部分を曝け出しているのである。まず声はかけたくない人物である。周りの外人たちも、彼女の変装?に異様なオーラを感じるらしく何か自分の母国語でヒソヒソと友人同士耳打ちしていた。僕の隣りの席にはドイツ人青年アレックス当時30歳が座った。始めはお互い遠慮して言葉は交わさなかったが、お互い1人の参加だったので徐々にうちとけ、アレックスは自分がハンブルグ出身でいかにビートルズが好きかを話し、僕も同様にリバプールに来れるなんて思ってもみなかったと盛り上がった。

バスは順調にリバプールの街を進む中、ガイドが「ここはジョンとポールが通った中学だ」とか各所で解説を入れると、何とあの日本人おばさんは「ワオー」とか「キエー」とか「ドリャー」と興奮し奇声に近い感嘆句を発するのである。彼女が奇声を出す度、バスの中は苦笑と何ともいえない雰囲気となり、アレックスは「彼女、日本人じゃないのかな?」と聞いてきた。僕はもちろん「NO WAY」と答えた。

リバプール/ストロベリー・フィールズバスはストロベリーフィールズに到着、ここは元々孤児院で入り口は門が閉まり中には入れなくなっていた。ガイド曰くこの孤児院の庭で子供の頃のジョンはよく遊んでいたらしい。そしてこのとても広いこの庭から1980年代か何かに、あのストーンヘンジで使用されている石と同質同年代のものがたまたま見つかり、地質学者や考古学者が連日調査の為訪れてきているとのことであった。こじ付けかもしれないが、ストーンヘンジはBC何世紀かの頃の地域有力者の墓との説もあり、同じ石がこのリバプールで発見されるなんて、まるでストロベリーフィールズも古墳の仲間?何て思うのである。しかしリバプールとストーンヘンジのあるバース地方(イングランドの南西部)は距離にして2、000キロは離れている、どうやって運んだのだろう?本当ミステリーである。

ちょうどこのストロベリーフィールズの入り口で写真をとっていると、あのおばさんが「写真、写真」と日本語で周り人に手当たりしだい話しかけていた。どうやら彼女は英語が喋れないらしい。しかしそんな状態でよくリバプールまで一人で来たものであると正直感心した。自分の言葉が通じないと悟ったおばさんは、ちらっと僕を見た!そして日本人らしきを発見と嬉しようにこっちに近づいてきたのである。アレックスは「おいおいあのおばちゃんこっち来るよ」と後ずさんだ。そしておばさんは僕に「日本の人?私の写真撮ってよ」と聞いてきた。僕は思わず「No, No I'm not Japanese」と言ってしまった。するとおばちゃんは「何だあんた日本語わかんじゃない!写真とってよ」 結局みんなの視線の中、僕はおばちゃんの写真を撮ったのでのである。しかもおばちゃんはSEXYポーズをしながら何枚も。その後のツアーにおいて僕が彼女の専属カメラマンになったのは言うまでもない。アレックスは 「 She loves you イエーイ、イエーイ」と僕の耳元で歌った。

Eビートルズと古墳の意外な関係?−その3(アビ−ロードは心霊スポット?) 03.9/6

僕は昨年8月から今年の4月まで約8ヶ月の短いロンドン駐在員となった。ビザの取得は約1ヶ月弱を要したが、何とか入国拒否はされず晴れてロンドンで働く権利を得た。

入国してまずやらなくてはならないのは、銀行口座の開設、日本大使館へ在留届の提出、そして家探しである。独身の僕は郊外のいわゆる家族4〜5人が住める住宅を探す必要もなく、オフィスから地下鉄で30分内、買い物に便利等々を考慮し地域を絞っていった。
その中にロンドンの北西部にあるセント・ジョンズ・ウッズ駅近辺も候補に挙がった。セント・ジョンズ・ウッズ地区はいわゆる閑静な高級住宅街で、市の中心に近い割には緑も多く食料品店やちょっとしたパブが近くにあり、日本人が好んで住む地域で、現に石を投げると日本人にあたるといった具合、何でもあの村上春樹も住んでいたとか。

そしてセント・ジョンズ・ウッズ駅から歩いて5分もしないところに、あのアビ−ロードスタジオそしてアルバムのジャケットで有名な交差点があるのだ。これは本当に偶然なのだが、たまたまその交差点の近くのフラット(いわゆるマンションよりのアパート)の一室が空いており、予算的にもOKであったので、僕はすぐにその部屋を借りる契約をした。
いくら僕がビートルズ好きといっても、交差点が近いからその家を選んだ訳でなく、その部屋の大家が日本人で、部屋にトラブルがあった時何かと便利かと思ったからである。

ロンドン/アビーロードその交差点はいまだに有名な観光スポットで、週末ともなると多くのビートルズファンが世界中から訪れ、交差点で写真を撮ったり、気分に浸って歌ったりで結構うるさいのである。そして、その交差点はアルバムのジャケットの中では閑静な印象があるが、実は結構交通量が終日激しいのである。そんな中、ビートルズファンが無理矢理あの横断ポーズで写真を撮ろうとするので交通事故が多発、死亡事故にまで至るケースも多いのだ。現に僕自身救急車のサイレン音が交差点前でとまるのを何度も聞いた。

そしてこういった死亡事故に起因しているのかどうかは判らないが、アビ−ロードの交差点はいつからか有名な心霊スポットになってしまったのだ。ロンドンは元々心霊スポットが多くて有名な街らしく、そういった場所を紹介している雑誌(日本でいうムーみたいなものか?)も多く出版されており、アビ−ロードの交差点は必ずと言っていい程、そういった雑誌に登場しているのだ。一度記事を立ち読みしたことがあるが、夜中の1時過ぎになると少女の霊が彷徨い泣き声とも悲鳴ともとれる音?が交差点から聞こえるというのだ。

また笑えるのがあの天下の英国国営放送、BBCが真面目に心霊特集を組み、霊能者なるものを呼んでアビ−ロードの交差点の前で霊視などをさせ、その霊能者は「この交差点にはジョンとジョージの魂が彷徨っています」なんて真面目顔で言うのだ、おっそろしー。

そんな交差点の傍なんかに住まなきゃよかったと何度後悔したことか........。

テレビ見てる時はいいけど、そういう番組って後から怖くなってくるんだよね、例えば寝てる時とかに思い出して。それも不眠症になった原因の一つの様な気がこの原稿書いててしてきたぞ。

ニューヨーク/ダコタハウス話は変わるが、ビートルズのゆかりの場所として有名なのは、イギリス以外ではやはりニューヨークのダコタハウスアパートではないだろうか。言わずと知れたジョンレノンとオノヨーコが1970年代に暮らしたセントラルパークの目の前に建つ超高級アパートで、1980年にジョンが射殺された場所でもある。今でも未亡人のオノヨーコはそこに住んでいる。仕事でニューヨークに行く時は必ず訪れる場所で、そのアパートの前もこれまたビートルズマニアのメッカである。必ず数人のヒッピー風の若者がアパートの前で自分に浸っている。僕もその中の一人なのだが。あれは忘れもしない2000年の秋に僕がアパートを再々度訪れた時である。アパートの前で屯っていると、白い長―いリムジンが、すっとアパートの中に入っていった。僕はもしやと思いアパートの入口に急いだ。もちろん警備員がいるので中まで入れないのだが遠目に車からオノヨーコが出てくるのが見えた。
僕は思わず「ヨーコさーん」と叫んだ。ヨーコはちらっとこちらを見て「手紙書きなさあーい」と叫び部屋に入っていた。??????ファンレター書けってことか?何か謎の発言であった。後日ピアノバーのおねーちゃんにその話をすると、「それは、オノヨーコのところに直接自分を売り込みにくる素人の芸人に間違えられたのよ」とのこであった。んー僕が芸人とすると、やはりお笑い?ミュージシャンじゃないよね。

てなことで3回に渡りビートルズにまつわる自己満足な四方山話にお付き合いいただいたが、次回は古墳Moodysらしくストーンヘンジを訪れた時のことを書こうと思う。

Fストーンヘンジ訪問記 03.9/12


あれは昨年の10月、ロンドンも相当肌寒くなってきた頃、常夏のタイランドからお客さん(と言っても関係会社のおじいちゃんなのだが.......)が出張でやってきた。そのおじいちゃんはロンドン訪問歴50回以上を数える人で、訪問の度に週末ゴルフをお楽しみになる人なのだ。しかし、その時は腰が痛いとのことでゴルフはやらず、週末はアウトレット巡りの買い物ツアー行く予定になっていた。僕と当時の上司は大事なお客さん(?)ということで土曜の休みにも関わらず買い物にお付き合いすべく早朝車でホテルにお出迎えに行った。上司に言わせると駐在員の最大の仕事とはお客さんにロンドンを心から楽しんで頂くこととか......旅行代理店じゃあねーとはなはだ疑問であったが、小心者の僕は何も言うことができなかった。

老人の朝は早い。朝8時にホテルに着くとおじいちゃんはホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら「遅せーよ」といった顔で待っていた。その日の我々の計画は、買い物を堪能させた後、日本食レストランで食事、その後ヒースロー空港まで見送り、夕方の便で「もう帰ってちょうだい」というものであった。

僕がおじいちゃんのトランクを車に詰め込んでいると、おじいちゃんは突然「ストーンヘンジに行きたいな」と言い出した。何でも昨夜ホテルのケーブルチャンネルで特集を見て、無性に現物を見たくなったらしい。上司は憮然とした顔で「急に行かれるとおっしゃっても、結構遠いのですよここから。それに腰が痛いのに車乗りっぱなしはきついですよ。」なんて何とか気持ちを変えさせるつもりらしい。さっきまでお客さんを楽しませるのが云々と言ってたくせに、彼は男3人で遺跡らしきもの見てもつまらんと思ったのだろう。もともとロマンのない男なのだ。僕は心の中で、がんばれ!じいさん。買い物なんてどこでもできる、ストーンヘンジはイギリスにしかないぞと叫んだ。と言うのも、もともと守銭奴の僕は買い物なんて興味なく、ストーンヘンジはいずれ訪れるつもりだったし、古墳MOODYSの準会員&特派員の初仕事ができると思ったのだ。

おじいさん(その時65歳と聞いた)曰く「わしも歳だし、多分ロンドン来るのもあと数回、いや最後かも知れない。だったら一度はあの石を見ておきたのだ。」 この言葉は効いた。上司はしぶしぶ合意し、我々は急遽ストーンヘンジに行くこととなった。

ストーンヘンジはロンドンの南西約90キロにあり、我々は日本でいう高速M4に乗るべくハマースミスを目指した。ハマースミスは都内でいう用賀みたいな所で、そこに辿り付くまで車は大渋滞、ホテルから10キロしか離れていないのに何と2時間もかかってしまったのだ。おじいさんはだんだん腰が痛くなってきたらしく「うーん、うーん」と唸りだした。上司は「ほら、言わんこっちゃない!行くのはあきらめましょう。アウトレットはこの近くにもありますから」と説得を始めた。僕は心の中で、じいさんがんばれ!こんなことでめげたら古代ロマンに触れられないぞと叫んだ。「イタタタ.....」おじいさんの鼻息が荒くなってきた。

俺は助手席に座ってナビをやっていたが、思わず「あの助手席に移ってシートをフラットに倒してください。少しは楽になるのではないでしょうか」と提案した。上司は何てこと言い出すのだって顔して僕を睨んだが、僕の心は絶対じいさんにストーンヘンジを見てもらうモードに入っていた。おじいさんは助手席でシートを目一杯に倒し少しは楽になったようだった。僕は仕方なく運転手の後部座席に這い込み体育座りで地図を見た。一旦M4に入ると車は順調に走り出し約2時間で車は広大な草原地帯に入った。この広大な草原にあの石の群れが猛々しく存在していると思うと、僕の心も徐々に高鳴っていった。

高速をおり市道に入って5分ぐらい車は走っただろうか、道の先に突然のごとく石の群れが現れた。「あれ?」 僕は思わず声を出した。ストーンヘンジって広大な草原の中に雄大に聳えたっているイメージがあったのだが、本物のそれは国道沿いに何だか採石場の石が無造作に積み上げられている様にしか見えなかったのだ。はっきり言って俺の期待感はみごとに萎えてしまった。

ストーンヘンジの絵葉書車を駐車場に止め、遺跡に向かう国道下のトンネルをくぐると、入り口に「Welcome to the place where you can find the world, 3,500 years ago」と書かれていた。日本では普通こういった遺跡の周辺には資料館があり、少なくとも「この石はどうの、こーの」と書かれた説明看板があるものだが、そこには何もなかった。石がありその周辺に囲いがあるだけで、変な先入観を植え付けない為なのか、それともなげやりなのか判断に苦しむところであった。我々は簡単な説明書を入り口でもらい石の周辺を周り始めた。 説明書の中で「these big stones」とか「mysterious stones」と書かれていたが、正直僕の感想はこんなものか......だった。しかし、かのおじいさんは石を見たとき感嘆の笑みを顔一杯に浮かべ、「これが約4000年前にウエールズから運び出された石か、どう運んだのだろう?」とか「この石の並び方は太陽崇拝に関係あるらしいな。確かに日没時に見たらすばらしいだろうな」と、いたく感動しているのだ。遺跡の石の周りを一周するのに早足でまわっても約30分かかるのだが、おじいさんは何ともう一度まわりたいと言い出した。腰の痛みは消えている様子だった。上司は「私はもういいですよ、ここで待ってますから勝手にやってください」との態度、僕は一人でいかせるのも悪いと思ったのでおじいさんの後ろについて歩いた。

おじいさんは明らかにさっきより遅いペースで石を見て歩いた。そして時々ふっと立ち止まり、ある角度からじつと石を見つめるのだ。それはまるで牛が草を静かに反芻する様にも見えた。「どうだい、1回目に見た時と違って見えるだろう?」おじいさんは突然僕に話し掛けてきた。確かに言われてみればさっきは気付かなかったのだが、石の色が日光の反射具合によって濃いブルーに見えたり薄いグリーンに見えたりするのだ。僕は無意識に「綺麗ですね」と言っていた。おじいさんニコッと微笑み「既に行った場所でも、既に読んでしまった本でも、2回目からは不思議とまったく違うものが見えてくる。1回見たから全て解った気になっては何も見ていなかったのと一緒じゃ」とつぶやいた。この言葉は静かに僕の心に沈み、自分の感受性のなさを少し恥ずかしく思った。

ヒースロー空港でおじいさんを見送る時「今日はせっかくの休みを付き合ってもらって本当に難儀なことだった、ありがとう」と何度も頭を下げた。僕はそのおじいさんが少し好きになった。

結局、ヤマポンとおのPにはストーンヘンジの絵葉書で特派員の報告とした。簡単な文章ではあったが、彼らもいつの日かここを訪れて欲しいと心から思ったのだ。

Gポテト入りやきそばへのオマージュ 04.5/21


今度アップした地産地消で紹介されていたポテト入りやきそば、とても懐かしい。
小生在住の熊谷ではポテト入りやきそばを見かけることができない。普通のやきそばは既に紹介されているフライに欠かせないサイドデッシュとして地位を確立しているのだが・・・。しかし、ポテト入りやきそばは無縁なものではなかった。小生にとってフライに次ぐソウルフードとして思い出される一皿だ。

中学生の頃、友人が妻沼町という埼玉と群馬県境の利根川沿いの町に住んでいた。彼の家にはよく東武熊谷線(通称、妻沼線。昭和60年に廃線になってしまった)に乗って訪ねたのだが、その東武熊谷線の終点駅である妻沼駅前の駄菓子屋でポテト入りやきそばは売られていて、よく食したものだ。ちなみに妻沼町は太田市とは利根川挟んで南側のお隣どうしなのだが、太田市にはポテト入りやきそばが存在しないらしい。川を挟むだけでこれだけ文化が違うものかねーと思う。

ポテト入りやきそばと聞くと何か野暮ったいイメージを持つ方が多いとあると思うが、これが相性ピッタリで、結構くせになるのだ。とかくやきそばって単調な味で、一皿食べ終わるまでにあきがくる人が多いのでは? しかしポテトが入ることによって味にアクセントが加わり、あきがこなくてお腹満足となる。

小生なりのポテト入りやきそばの鉄則として、
@ ポテトは固ゆでで、麺と共に炒める際、表面に少し焦げ目が付いているのがよい
A やきそば一皿あたり、角切のポテトが7個入っているのがよい。それ以上入るとやきそば入りポテトになってしまう。
B 七味唐辛子があれは、軽くポテトの表面に降りかけたい。
C ポテト入りやきそばのお供はラムネか三ツ矢サイダー

北関東にいらっしゃった折には、是非お試しあれ。


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